永遠のボヘミアン

大好きなケヴィン・エアーズが、フランスの自宅で誰にも看取られずに去って行ってしまった。

枕元には「燃えなければ、輝かない」というメモがあったそうだ。

ケヴィンを知ったきっかけが、当時プレイヤー誌で連載をしていた下山淳のコラムだったか、ギターマガジン誌に載っていたオリー・ハルソールのインタビューだったかは忘れたけど、私がケヴィンを初めて聴いたのが、’88年にリリースされた「Falling Up」。
聴いたのは、たぶん90年とかだと思う。

だから88年の九段会館での初来日は観ていない。

93年の二度目の来日も観ていない。
でも、この来日の1週間前にハルソールが死んでしまいショックだったのは覚えている。

それから9年、日本でほとんどニュースが入ってこないところに突如ケヴィン来日のニュース。

初めて聴いてから12年、その間に手に入るアルバムはほとんど手に入れ聴いていた。
凄く嬉しくて、ワクワクしながらチケットを取り、今は亡きトリビュート・トゥ・ザ・ラブジェネレーションに観に行った。

2002年03月01日と2日。

正直、二日目の出来は良くなかった。二部構成で、最初の40分は音も演奏も酷かった。
アンコールもマネージャーがステージに出てきて「疲れたからやらない」と伝えて終わりというフリーダムさ。
そんなところも魅力だったし、良く悪くもロックの自由さを見せてくれていた。
それにケヴィンがステージに立って歌っていることが凄く嬉しかったし、「Mey I」や「Lady Rachel」が生で聴けるなんて夢にも思ってみなかった。

2002年03月03日(日)00時29分35秒のコラムにも書いてあるけど、このとき当時の彼女を通訳にして楽屋でケヴィンと会っている。

凄く優しくて素敵だった。
そして「来年も来るよ」という言葉を信じて次の来日を待っていた。

翌年、ケヴィンの来日のニュースはなく、2004年に4度目の来日。

相変わらず出来不出来の差が激しいライヴだったけど、日本に来てくれただけでも嬉しかった。

3度目の来日公演時に思ったのが、立川談志家元が晩年の古今亭志ん生を評した言葉。

「舞台の上に寝かせておいてそれをみんなでそっと見ているだけでも素晴らしい芸だしファンもうれしいはずだ」

私の中で「ケヴィン・エアーズ=古今亭志ん生」という公式ができあがっていた。

居てくれるだけでいい存在。

ストーンズのようなスタジアム級のバンドの「老いへの抗い」を観ていたりすると、スタジアム級のステージとは無縁でもケヴィンのいい加減で、デタラメで、自由で、何者にも縛られない活動は本当に素敵だと思った。

でも、93年にハルソールという片腕を失ってから、全くアルバムを出していたかったし、ある意味ヤル気はなかったのかもしれない。

素敵な音楽を沢山ありがとう。
素敵なステージをありがとう。
素敵な言葉をありがとう。

私は、ケヴィン・エアーズというミュージシャンと同じ時代に生きられたことを、幸せに思います。

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以下、Mixiコミュニティから畑に猫さんが訳したロバート・ワイアットの追悼文の引用。

50年ほど前、イーストケントに髪の長い奴がもう一人いるよ、と誰かが教えてくれたんだ。それでそいつに会うべきだろうと思った。仲良くなれるだろう、とね。実際会ってみたら、やっぱり仲良くなったよ。kevinは若者向きの曲を書き、驚くほど深い声でもって歌っていたんだ。

Kevinの持っていた数少ないレコードにはAstrud Gilbertoやアコースティク・ジャズ・ギタリストのCharlie Byrdなんかがあったな。彼はOscar WildeやLouis McNieceを讃えていたよ。彼の書く曲はしゃれていて、心を打つものがあったんだ。

Kevinと我々数人で、自分たちの曲だけを演奏するグループを結成することにした。(William Burroughsの許可をもらって)Soft Machineと名付けたんだ。Kevinとは’68年の終わりまで一緒に演奏したよ、いろんなかたちでね。

その頃までには我々は器楽的なバンドになっていて、Kevinはベースを担当していた。でも彼は以前のように歌を作りたくなったんだ。そしてその結果、「Joy of a Toy」をはじめとする一連の素晴らしいレコードが生まれたわけだ。

1970年には私はKevinの新しいバンド、The Whole Worldで何度か演奏した。Kevinと一緒に演るのはまるで日向ぼっこをしているかのようだったよ。彼はおかしくて、賢くて、ゆったりとしているやつだったな。あの時代にKevinと一緒にやれて本当にラッキーだと思うよ。さようなら、Kevin。